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函館東高は私の心のふるさと―東高1回生俵浩治先生

母校と同窓会と私、シリーズ第5弾」
「函館東高は私の心のふるさと―東高1回生俵浩治・元函館東高教諭」
函館東高は私の心のふるさと―東高1回生俵浩治先生_f0147468_018281.jpg 「(校歌は)すっかり頭に入ってね、今でもそらで歌えますよ。たいへん愛着のあるいい校歌ですね」という肉声を、東高放送局制作ラジオドキャメント「思いでのよすがに」の中で何度も聞いた。東高1回生ということは分っていたが、どんな先生でどんな思いを東高に抱いているのだろうか。そんな思いを持っていた。
 写真は私の1973年卒業アルバムから取り出した俵先生の写真である。
 今回、「続・青雲時報縮刷版」刊行を祝う会の取材の前、先生にお会いしてインタビューする機会を得た。あの憧れの青雲時報縮刷版刊行委員会・山の手編集室にて2時間もの間、先生のお話を聞いた。直接、教わったことはなかったが、その声は馴染みが深く、恩師の話を聞くような気分だった。
 先生は意外にも東高には1年しかいなかったそうだ。
 東高の歴史の生き証人として東高を語るにはなくてはならない先生のお一人であろう。
 函館東高の前身である函館市立中の時代から、学校が良い先生を見つけるべくいろいろな大学を廻り、教頭先生らが東高の先生を探していたそうだ。俵先生もスカウトされた一人であった。
 以前聞いた話だが、全国の高校で先生になる率がもっとも高い学校だと東高を紹介した週刊誌があったそうだ。いい先生に出会ったから、先生を目指す生徒が多かったのだろうと思う。

 最後にインタビューの設定をしていただいた上田昌明・青雲時報縮刷版刊行委員会事務局長に感謝いたします。
 また、先生には長時間に亘りインタビューに応じていただくともに、当時の写真を始め三高合同同期会や井上一先生の追悼集などいろいろな資料を提供いただき厚くお礼申し上げます。

 尚、先生からお借りした貴重な当時の写真は函館東高資料集その2東高第1回生関係写真として収録しました。

# by higashikou-shiryo | 2009-05-31 23:58  

梅谷利治先生、ローマ日本文化会館で展示会

梅谷利治先生、ローマ日本文化会館で展示会
 他函館の文化財、国宝中空土偶展報告

梅谷利治先生、ローマ日本文化会館で展示会_f0147468_071988.jpg この函館東高資料集を作ってあと1ヶ月足らずで2年となる。その中で数多くの人々との交流が生まれた。
 その一人が村田和男さんだ。東高とは直接関係がないが、1960年(昭和35年)5月から1989年まで29年間東高で美術教師を務めた梅谷利治先生(創作凧師、梅谷利治先生の世界参照)とは凧を通じて強い絆を結ばれている。この度、村田さんから先生の最新情報を得たので、紹介した。3月28日から5月9日まで、イタリアのローマ日本文化会館で「梅谷利治師&アンナオネスティ女子とコラボレーション展示会」を開催している。詳細は本文にも紹介しているように、村田さんのホームページを参照いただきたい。
梅谷利治先生、ローマ日本文化会館で展示会_f0147468_0224187.jpg

 函館東高資料集その2、写真集は毎日2、3人のアクセスしかないが、時々更新している。続・青雲時報縮刷版刊行を記念して、そのDVDから1977年発行の「青雲時報」のグラビア写真や年表をPDF版にして紹介している。「続・青雲時報」についてはまだ発売中であることから完売までの当分の間、掲載しないつもりである。1940~1976年の思いでの写真や年表をご覧になっていただきたい。
 函館東高には多くの名物先生がいると思っていたが、それは単なる偶然ではない。東高の前身である函館市立中の時代から先生を探しに大学などにスカウトに行く伝統があったようだ。東高1回生・俵浩治先生もその一人で、北大大学院生時代にスカウトされたという。近日、母校と同窓会と私に発表予定だ。
 函館市立中学校教諭第1号の先生・井上一先生は、新しい学校建設に情熱を燃やしていた岡村校長先生に迎え入れられた。昭和8年3月、小林多喜二(最近、その著書「蟹工船・党生活者」が脚光を浴びる)農葬準備中に逮捕されるが、7月起訴猶予で釈放されたという経歴をもつ先生だった。井上先生についても当ホームページに掲載予定。俵先生からお借りした「明けない夜はない―井上一先生追悼集―」以外あまり資料がない。直接教えを受けた生徒の皆さんの思いでをお聞かせ願いたい。

# by higashikou-shiryo | 2009-05-06 00:07  

祝、「続・青雲時報縮刷版」刊行、祝う会報告

祝、「続・青雲時報縮刷版」刊行、祝う会報告
祝、「続・青雲時報縮刷版」刊行、祝う会報告_f0147468_13291236.jpg 今回、続・青雲時報縮刷版を祝う集いに参加するよう上田事務局長より誘いを受け、部外者ながら取材ということで参加させていただいた。
 「外部からもPTAからも新聞に一切検閲や干渉をさせなかった。新聞部を生徒会の外局として独立を保ったんだ。生徒会にも口出しさせないため、新聞局から生徒会長を出したくらいだ」と新聞局の思いでを語るのは、新聞局員の金沢鉄二さん(昭和28年卒、第3回生)だ。
 このように本文にも紹介したとおり、青雲時報新聞局員は高校生とは言えりっぱな記者魂をもって青雲時報を発行してきたのだ、と祝う会の前に金沢さんのお話を聞く機会を得て痛感した。
  函館東高資料集を完全な個人のホームページとしたのは、同じ思いで、誰からもどこからも検閲を受けないようにするためであるから、なおさら同じ思いに共感したのである。
 「書いた原稿を事前に相手に見せるのは、本来やっていけないことである。書かれた側はどうしても直したくなってくる。書いた側の受け取り方や判断記事でも、新聞である以上、そうした『閲覧』を認めてしまっては公正な立場も『志』も全く失われてしまう」とは私の師の言葉だ。
 だからと言って勝手な思い込みで書くわけにいかない。実際はタイプミスや内容に誤りがないか、チェックをしてもらうようにしている。金沢さんの発言も50年誌から裏を取ったら、確かに新聞部員の生徒会長の名が刻まれている。

祝、「続・青雲時報縮刷版」刊行、祝う会報告_f0147468_13542421.jpg 俵先生が「函館東高には未来がないとは私は思いません。タイトルは変っても、その精神は市立函館高に引継がれていくことでしょう」と挨拶していたが、私も同じ思いだ。
 祝う会の翌日、母校を訪れた。昨年8月、青雲同窓会の時には信太郎池の水がすっかりなくなって昔の面影ない、また現地の人からそんなメールをもらったので、勝手にそう思い込んでいた。しかし、今回現地に行って実際に見たら、ご覧の写真のとおりだった。再度、俵先生の言葉を思い起こす。

 そんな写真を新たにした。
 本校を築いた3人の歴伝 ひんがしの杜誕生

 「母校と同窓会と私」のシリーズの5人目に俵先生が登場します。近日、発表予定。

# by higashikou-shiryo | 2009-04-30 14:00  

市立函館高の新校長に、東高20回生日向稔さんが赴任。

市立函館高の新校長に、東高20回生日向稔さんが赴任。_f0147468_0161969.jpg 去る4月8日、「本校は、平成19年4月、函館東高校と函館北高校が統合して誕生した、函館市唯一の市立高等学校です。・・・しかし、67年の歴史を持つ函館東高校と44年の歴史を持つ函館北高校の同窓生合わせて3万5千名が、国内のみならず世界各国で活躍し、熱い期待を込めて皆さんを見守っています。両校の輝かしい伝統の元に本校が立っているのであり、加えて、函館市民の教育への真摯な思いと両校のパワーを合体させて生まれた学校であります」と市立函館高の日向稔・新校長が入学式の挨拶で語ったそうです。

 日向校長は函館東高の20回生(昭和45年卒)。
 石井同窓会長からも「新しい市立函館高校の校長先生が決まりましたのでご連絡申し上げます。
校長   日向 稔 (ひむかい みのる) 新任
教頭   小松 将人           留任
教頭   河合 宣孝           留任」
とメールをいただいておきながら、皆さんにご連絡が遅れて申し訳ございません。

 新しい母校の動向は気になる方々も多いと思い発表しました。
 
 先生の挨拶にもあるように、函館市唯一の市立高が市立函館高であるという観点から、じっくり長い時間をかけて同窓会を発展すべきかと思います。独断で進行すると、できるものもできないではないでしょうか。

 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、市立函館高の卒業生からこんなメールをもらいました。
「Commented by かんぢ at 2009-03-30 13:26 x
懐かしい写真です。若き日の父が写っています。
「どうだ、俺だってこんなに髪の毛があったんだぞ」と言っていたことが懐かしいです。
Commented by 関東青雲同窓会HP管理人 at 2009-04-02 00:32 x
かんぢ様
投稿、ありがとうございます。
お父さんの写真があったのですか。かんぢさんも東高の生徒だったのでしょうね。
この東高資料集を通じて、昔話の会話がはずむといいですね。
Commented by かんぢ at 2009-04-04 20:26 x
私は合併した学校出身です。父は他界して18年になります。
フィフティーンの写真の上段右から3番目、FBだったそうです。
「ステップを踏むと髪の毛が左右にばっさばっさと」
大病をした父は、私が子供のころから髪の毛が薄かったのですが、こんな話で笑わせてくれました。
橋本主将のことだったでしょうか「人間機関車」の話をよく聞きました。
とても懐かしく思い出されます。写真は実家の父の机に飾ってあります。」

「ラクビー部熱闘の記録、全国制覇の歩み」の中の写真に対するコメントです。

先日、北海道の小学校6年生からこんなメールもいただきました。
「私は、別小学校の6年生です。今、石垣福雄さんについて調べています。
質問したいことがあります。・石垣福雄さんは現在おいくつですか?」

おそらく「市内高校統合案を阻止した人々―戦後にもあった統合問題―」を読んでのメールだと思いますが、
毎日10数人のアクセス数しかないこのホームページでも意外な人も見ているのです。

尚、市立函館高の入学の様子は、同高のホームページにあります。写真のアドレス

# by higashikou-shiryo | 2009-04-10 00:36  

函館東高創立20周年記念「栞(しおり)」提供される

函館東高創立20周年記念「栞(しおり)」提供される_f0147468_041820.jpg
 左の写真は、1960(昭和35)年9月23日発行の北海道函館東高等学校・創立20周年記念「栞」の表紙である。32頁の冊子であるが、同窓会や学校創立に関する貴重な証言資料があった。
 関東青雲同窓会の新山春一会長から提供を受けた。この場を借りて感謝致します。
 函館東高同窓会誕生の中に「同窓会の歩み」として、追加した。
 「校名が変ったり、制度が変わったために、新同窓会誕生の噂さえのぼった当時、未だ若い同窓会が、この期間に於いて、これらの諸問題を克服して、母校創立の精神をそのまま継承した1本の同窓会を確立していったのであります」と記されている。まさに今日の同窓会問題の参考となろう。
 岡村威儀初代校長の「創立時の夢」を収録した。
 「然し時局は意外に発展し、生徒の教育は軍事教育一辺倒に向い、予科練や特幹にかりたてられ、食糧増産や援農に校門を捨てて立ち向うこことになりました。立派な学校に整備する事もできず、資材不足から最初の計画の鉄筋校舎は建たず、7年制高校は文部省の方針で新設中止となり、新しい学校であっても、教具教材等一切購入は不可能、配給はなし、大きな理想に燃えた吾々も、その計画を捨てざるを得ない事情でありました」と当時の苦しい時代のことを吐露している。

 後にぼろ校舎といわれた所以には、こうした状況下であったという歴史事情があった。

 また、20周年記念「栞」(題字も担当)が発行された時、80歳となられていた元函館市長の投稿原稿「此の感激」も収めた。
「80年の予の生涯の中、実に感激にひたりこと2回、・・・他は梅津福次郎翁が函館中学寄付の申出をさせられた時である。甲は私の仕事であるが他は公の事で、函館全市民に関係し、且つ多数の青年学徒の前途に関するものであるから、殊更感激の涙嵭沱として落ちるを禁じるえなかったのである」と我が母校のことを「函館全市民に関係」することと断言している。

 梅津福次郎翁のことを改めて、考えさせる文章だ。

# by higashikou-shiryo | 2009-03-21 00:06