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函館東高名物―もう牛はいない

もう牛はいなし―函館東高乳牛飼育の歴史函館東高名物―もう牛はいない_f0147468_23501569.jpg
 写真は、青雲時時報に最多4度も登場した東高の名物、もう君(牝牛)です。
 我が母校は、開設時から多くの有名、無名の人々の支援によって誕生してきたことを当ホームページで紹介してきました。
 その歴史の中、もう一つの陰ながら、東高をさせえてくれた牛達の物語です。
 東高今昔物語に2度も取り上げられてます。
 初代校長岡村先生さえ、東高の青雲時報に3度しか登場してません。(市立高に別に1回)
 
 そして、その牛を飼育の初めから13年間見守ってきた牧夫・大竹さんの存在も忘れられません。「亀田町の農家に大竹さんが牛の飼料を貰いに歩いたこともあった。主食は本校の製粉所から来る粉のかすだった」。当時、車があるわけでもなく、きっとリヤカーで運んだことでありましょう。そうした大竹さんらの努力が品評会で優勝を勝ち取った―これは東高のひとつの誇るべき歴史の記録であるに違いありません。

(尚、本文は青雲時報1号から100号までの資料から記しました)

by higashikou-shiryo | 2008-02-18 23:52  

初代校長・岡村威儀先生の胸像除幕式

初代校長・岡村威儀先生の胸像除幕式
初代校長・岡村威儀先生の胸像除幕式_f0147468_020959.jpg
 写真は、「青雲の志」の胸像。確か私が東高に通っていた頃も、あっはずです。しかし、そのいわれも、誰の像であるかも、まったく知りませんでした。それから30余年、東高の歴史を編纂して行くにつれ、「青雲台」のなずけ親である初代校長・岡村威儀先生のものであり、その背景を理解することになりました。
 「本校は私の故郷のようだ」「一生ここで終えようと思っていた」と函館東高誕生の年に北海道教育長として、本校を訪れた際に語っておられます。本編の写真にあるように、自ら生徒と一緒になって植えた2千本余の樹木のように、先生は今日の東高の伝統の礎とになった、と思うのです。
 昭和36(1961)年12月2日、神戸にてご逝去されて、わずか8ヶ月足らずで、胸像の除幕式が挙行されたことからも、いかに当時の東高関係に先生の存在感があったかという裏付けになるのではないでしょうか。
 今、岡村先生を直接知る人は、いませんか?
生徒の時は考えてもしなかった、つい半年前でも思いもつかったことですが、知られざるエピソードを聞きたいものです。
 昨年10月、今は市立函館高となった母校を訪ねたとき、この「青雲の志」は見当たりませんでした。今はどこあるのでしょうか。今になって、尋ねて写真を撮るべきだってとただ後悔しております。

by higashikou-shiryo | 2008-02-17 00:20  

函館東高青雲同窓会誕生

函館東高青雲同窓会誕生
函館東高青雲同窓会誕生_f0147468_22414596.jpg
  昭和26(1951)年8月12日、初の東高青雲同窓会定期総会が開催。その年3月1日、函館東高第1回生卒業式から5ヶ月後のことでした。
 当時の様子とその後の同窓会のことを青雲時報から拾ってみました。
 第1回の総会で、「実施を急いで居るものに本会奨学制度」だったというのです。そして、平成19年度の総会まで本会奨学制制度は続き、その収支報告書も紹介しました。
 最初の頃は、現在の総会に比べ、実につつましかったようです。その活動は、奨学金、名簿作り、寄付金集めといったように、地味なものであったのでしょう。青雲時報の記事でしか、その当時のようすを紹介できませんでした。しかし、これもまた函館東高の欠くことのできない歴史の1ページだと思い、独立して掲載します。

 写真もひとつもなく、文章もありません。
 皆様の思い出や写真提供を募集してます。

by higashikou-shiryo | 2008-02-14 23:44  

函館東高、大学区制のスタート

大学区制のスタート函館東高、大学区制のスタート_f0147468_22373396.jpg
 「大学区制、小学区制それぞれにプラス、マイナスがある。問題のプラス、マイナスを差し引いてどちらが多く残るかである。我々は世論にまどわされず、利己的な考えに陥らず、各自、自分の意見を固めることが必要であろう」と昭和40年7月7日発行「青雲時報」第68号にどうどうと東高生徒は主張してます。
 写真はその記事。東高の歴史の一コマ人コマを青雲時報の中から拾っていると、関心させられます。
 1950年、高等学校の再編成により、東高の前身・函館市立高の生徒はちりぢりになることを余儀なくされました。その15年後の1965年、今度は大学区制となるのです。その賛否意見を記事にしてます。
 そのメリットのひとつは、郡部の生徒が都会(?)に来れるようになったことではないでしょうか。私の学年の時も、郡部から来て下宿していた同期生がいました。そうした多くの人達が集まって今日の同窓会組織が出来たのかもしれません。
 個人的ながら、大学区制がなければ、私は東高に入学することもなく、この函館東高資料集も作ることがなかったでしょう。
 大学区制がスタートしたことで、東高の学力が上がったかどうか、定かではありません。
 1962年小学区生当時の進学・就職状況の記事も掲載しました。

 函館東高創立物語に、本校の設立に尽力された佐藤與一郎函館市長の「感激の一夜、かくて本校は建つ」の話を見つけ、追加しました。梅津翁の話は、多くの方の知るところですが、3万坪の敷地を提供された田中顕夫氏のことはあまり知られてません。我が母校の校地は、営林区に約15万円で売る約束したところを中学校のためにと、田中氏は2万円で譲っていただいたのです。

 今年の関東青雲同窓会新年会で東高1期生の方より、田中さんは「ここに(校地図民有地)に住んでいた」とお聞きしました。(校舎校地今昔参照)田中さんはきっと東高の生徒を特別な思いで見ていたに違いありません。

  同窓会・支部に、関西青雲同窓会の小林正孝会長からのメッセージを追加しました。

 市長の思い出話を聴くにつれ、母校は多くの市民の思いで誕生した“市民の学校”であった、と確信するのであります。

by higashikou-shiryo | 2008-02-09 23:05  

函館東高あの時あの頃全面的改訂・増設

東高あの時あの頃函館東高あの時あの頃全面的改訂・増設_f0147468_23103812.jpg

青雲時報縮刷版を入手し、東高あの時あの頃を全面的に改定しました。
函館東高の誕生青雲時報縮刷版出版を追加しました。
その時々のホットの情報を縮刷版より引用して、掲載してます。

 函館東高の歴史は、廃校になった母校の歴史のみならず、日本の高等教育の具体的な歴史を現している、というような気になってまいりました。その誕生は、戦中・戦後の揺れ動く日本の高等学校の変遷そのものでありましょう。第2時世界大戦ともに誕生し、戦争に振り回され、戦後は進駐軍に右往左往したのでした。
 今では当たり前となっている男女共学でも、当時の人々にとって、まして2年生の当時の女性にとっては「急激な変化に唯唖然とした」のです。当時の貴重な証言として、「共学雑感」全文を東高誕生に紹介しました。その福田芳子さんが今その頃のことをどう思われているか、お聞きしたいものです。

 東高の前身・市中函館の岡村初代校長は、後に北海道教育長となり男女共学となった東高を訪れた際、こう語ってます。「本校は私の故郷のようだ。在任当時の先生や、校舎周囲の樹木をみるにつけ、一生ここで終えようと思っていただけに感慨無量である」。若き校長先生のこんな思いが、東高の礎となったのでしょう。

函館北高の設立に、当時の青雲時報の記事を掲載しました。北高の新設について、当時の新設校の通学区である湯ノ川中、深堀中の生徒や先生方に直接インタビューした記事を引用させていただきました。温故知新というとおり、今後の同窓会のありかたに、示唆を与えてくれるような記事でした。

「何のことない、生徒数が増えて分家した北高が、生徒数が減ってもどって来た」というのは事実かもしれません。でも、北高関係者には理屈で割り切れないものがあるに違いありません。
でも、北高関係者の設立当時の思いを呼び起こせば、次の解決策が見出せるのではないでしょうか。

by higashikou-shiryo | 2008-02-03 23:32